兼愛・非攻

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

先日、テレビで「墨攻」という映画をみました。
本作のストーリーはフィクションだが、アンディ・ラウが演じる主人公、革離の属する「墨家」は、歴史上に実在した集団。
墨家は、中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。「兼愛」「非攻」を説いた。
一見、平和主義だが、攻めることは禁じつつ、守るための闘いは善しとし、攻められ助けを求める国があれば、助っ人として馳せ参じる。戦闘集団としての面も併せ持っていた。
墨家はたんなる思想集団ではない。戦国期の思想集団としても、同時期の「儒家」とは比較にならないほどに体系化された思想と論理をもっており、そのうえ実は、強力に組織された軍事集団でもあった。
また、その独特の「兼愛」思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。
初期こそ怠惰な者も役得目当ての者も多かったのだが、やがてはどんな集団にもありがちの、堕落する者や脱落する者がほとんどいなくなっていた。
墨家は戦国期最大の思想的軍事集団あるいは軍事的思想集団の総称なのである。
これだけでも墨家の異例の特質が際立つが、さらに墨家の異様な相貌を代表する思想と行動が「非攻」であった。
一般に、人を殺すことは、どんな時代の、どんな政治家も思想家も容認していけない。村や町で一人の人間を殺すことは、ただちに犯罪とみなされる。それなのに戦争となると、多数の殺害が平気で容認される。
一人の殺害を国法や社会の法で裁いている一方で、他方では多数の殺害を正当化する何かが動いている。いったい戦争とは何なのか。いっさいの哲学と制度と愛を踏みにじるためにあるものなのか。
戦争を仕掛ける行為をこそ問うべきである。相手に攻撃をかけたい社会意識と国家主義こそ打倒すべきである。
これを墨家の「非攻」論という。攻撃による戦争をすべて否定しようとしたものだ。
ところが墨家は、ここからが異常だったのである。「非攻」ではあっても「墨守」なのである。戦いは決して仕掛けないが、その戦いに屈することも肯んじえない。墨家はここで立ち上がって、守り抜くための戦争を断固として挑む。
実際に、墨家がどこでどのように守備戦闘にかかわっていたかという記録は少ない。しかし、さまざまな史料や見解を総合すると、墨家は頼まれれば、どんな都邑の城郭の防御のためにも傭兵的集団として出向いていた。
しかし、すべての人を差別なく愛するという「兼愛」思想は、君主と部下のあいだに上下関係の制度をおこうとする者にとっては、邪魔なものである。中央集権国家をつくるにも障害になる。
墨家はこのような事情からも、各派に嫌われ、排斥されることになる。戦国時代に「儒家」と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。
人を隔たり泣なく愛する「兼愛」、相手を攻めない「非攻」は現代社会においても、通じるものがあったので、大変勉強になりました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*