スノーボードハーフパイプ

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服装問題に揺れ続けた、国母のバンクーバー五輪が終わりました。
2回目の演技が終わり、表彰台に手が届かないことが決まると、国母はヘルメットとゴーグルを宙に放り上げ、悔しさをあらわにした。1回目に転倒して顔面を強打し、口の周りから出血した。それもあって競技終了後、報道陣の問いかけの最中に口に含んでいた水を、何度も吐き出す場面もあった。
 
感情の表現方法は器用ではない。それでも周囲の関係者には、以前にはうかがい知れなかった素顔を見せるようになった。騒ぎが大きくなってからのこと。国母は、萩原文和監督の部屋を一人で訪れ、「すみませんでした」と言葉にした。
萩原監督は「今回初めて長い時間、話をした。それで彼に対する考え方が変わってきた。しっかり聞けば、きちんと気持ちを伝えてくる。本当は素直なんだ」。
2007年11月20日、難病である慢性活動性EBウイルス感染症を患った友人のプロスノーボーダーの治療のため『ダゼ募金「荒井daze善正君を救う会」』の立ち上げに加わった。
 
国母の五輪出場にゴーサインを出した日本代表選手団の橋本聖子団長は「照れ屋で、自分が思っていることと表現がかみ合わなかったりする面はある。でも国母からは内に秘めたアスリート魂を感じている。これからは、内に秘めた人間性というか、素直さを表現できるようになってほしい」と期待する。  
06年トリノ五輪では予選で敗退。「4年前の悔しさは晴らせたか」と問われると「はい」と答え、「この後に続く本当のスノーボーダーが五輪を目指してくんなきゃ、おれがまた出るつもりでいます」。さまざまな重圧から解放され、ふと本音が漏れた。そして21歳の青年は、こうも付け加えた。「自分のスタイルを出せた。いろいろあったけど応援してくれた人には感謝している。
オリンピックで優勝したのはショーン・ロジャー・ホワイト。モップのような髪型と赤い髪の毛が特徴で、The Flying Tomato (空飛ぶトマト)の愛称で知られる。
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴで生まれ、生後3ヶ月の時、心臓に異常が見つかり2度の手術を受ける。幼少の頃は、自宅の庭にあるスケートボードランプ(スロープ)やトランポリンなどで遊んでいた。スノーボードは6歳の時、カリフォルニア州のジューンマウンテンで始めた。
すぐに腕を上げ、7歳で初めてアマチュアの大会に出場し、12歳以下の部門で優勝。翌年から各地の大会や世界大会に出場するようになる。スノーボードを始めた当初に、母親がスノーボードメーカーのバートン・スノーボードに、6歳の彼に合ったボードがあるのなら見たいと電話したことがきっかけで、13歳の時にバートンが彼のスポンサーとなり、プロスノーボード選手として活動を始めた。
それと同時にスケートボードでもプロに転向。以降Xゲームズやアメリカ国内大会、国際大会に出場。そして、夏と冬のXゲームズ両方でメダルを獲得した初の選手となる。冬のXゲームズでは6個の金メダルと2個の銀メダルを獲得し、特に男子スロープスタイル競技では4年連続(2002年 – 2006年)で金メダルを獲得した。
2006年のトリノオリンピックでは、男子スノーボードハーフパイプ競技で予選1本目で手をつくミスをする。結果は7位になり予選1本目通過はならなかったが、予選2本目以降では完成度の高いエア(技、トリック)を次々と披露し、見事金メダルを獲得した。
 
2010年のバンクーバーオリンピックでも48.4の高得点をマークし、金メダルを獲得。五輪2大会連続の金メダルとなる。
国母のエアー

ショーン・ホワイトのエアー

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