Water

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私達は、自分一人の力だけで生きていくことなどできません。周りの人に支えられているだけでなく、生きとし生けるもの、この世に存在するすべてのものに支えられて生かされています。
空気一つ、水一つとっても、わたし達が生きていく上で必要不可欠なものです。また、科学や文明がいくら発展しても、空気や水を創り出すことなどできません。わたし達は、人間の力など到底及ばない偉大なる天地・自然に生かされている存在なのです。
しかし、現代の科学文明は、開発という名の下、自然をどんどん破壊して、わたし達の命を支えている空気や水を汚染し続けています。人類全体で見れば、明らかに環境破壊に陥っているのが、現代社会の構造的な問題です。
『碧巌録』にある「曹源の一滴水」という禅語から学びます。
明治の初め、京都嵐山の天龍寺の管長になられた滴水宜牧禅師は、修業時代を岡山・曹源寺の儀山禅師の下に過ごします。ある日の夕方、師が入浴中、滴水に問います。
「わしが風呂から出たら水をどう仕末するのか」
「老師の次の人が入ります」
「それがすんだら」
「私たち小僧たちが入ります」
「それがすんだら」
「捨てます」
儀山の大喝一声が飛んでまいります。
「バカモノー、なぜ木の根にかけぬ。一滴の水をもそまつにしてはならぬ」
この一声が心底に徹して、益々修行に励み、そしてついに五十歳の若さで、天龍寺の管長に推されます。よほどそのことが肝に銘じたのか、以後、号を「滴水」と改め、七十八歳の生涯を閉じるまで、「水は仏の御命である。一滴の水をもムダにせぬように」と口グセのように言い続けて、信者たちの教化に尽くされました。
茶人は釜からひしゃくでお湯を汲み、必ずその半分の湯を元の釜に戻します。それは量の問題ではありません。水を大切にする「心の問題」です。
私達現代人は、あまりにも水を無駄に使っていないでしょうか。「曹源の一滴水」。天地・自然の恵みが、わたし達の源であり根本であることに思い至り、空気や水を汚染し続ける開発行為にそろそろ、歯止めをかけるべきなのではないでしょうか。
まずは、一人一人「もったいない」の精神でやれることからやってみましょう。

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