島津義弘

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どの戦国大名に似ているかを診断してくれるサイトがありました。
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「もし、友達に意地悪されたらどうするか」「今日はなんとなく仕事に行きたくない、そんな時は?」など、25の質問に答えることで、戦国大名の名が表示される。加えて、100点満点の武力、知力、魅力、政治力、才能の数値も表示される。
実際に試したところ、私は島津義弘でした。

●武力:70点 [よくできました] あなたの武力です。この値が高いほどあなたは敵をなぎ倒していき、戦闘で能力を発揮できます。現在でも愛する人を怪しい人から守るなどの時に役立つことでしょう。
●知力:50点 [普通] あなたの知力です。この値が高いほど頭がいいことになります。戦闘で仲間の損害を最小限に抑え、相手の損害を大きくすることができます。現在では、有名大学に入って、一流企業に入るもよし学者となって、後世にまで受け継がれるような研究を行っても良いことでしょう。
●魅力:75点 [よくできました] あなたの性格の良さです。この値が高いほど、周りの人の喜びを常に考える性格のいい人であるということです。
●政治力:75点 [よくできました] あなたの政治力です。戦国の世でのし上がっていく為には、朝廷や他勢力といかに交渉するかも大事です。この値が高いほど、あなたは自分の会社などで勢力を持ち、出世していくことができることでしょう。
 
●才能:75点 [よくできました] 音楽ができるとか人を笑わせるとか、ちょっと個性的な才能。秀吉が天下をとることができたのも個性的な才能を十分発揮することができたからでしょう。
 
島津義弘は、生誕 天文4年7月23日、1535年8月21日、死没元和5年7月21日、1619年8月30日。 薩摩島津氏の第17代目当主。
朝鮮の役で「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、関ヶ原の戦いでは徳川家康の本陣近くを通過して敵中突破を果たし、全国に名を轟かせた。
 
慶長3年(1598年)の秀吉死後、義弘は中立的な立場を貫いていたが、この頃の島津家内部では反豊臣的な兄・義久と親豊臣的な義弘の間で家臣団が分裂していたようである。
また、義弘が大坂に留まっていたのに対し、義久は本国の薩摩にいたため、義弘には本国の島津軍を動かす決定権が無く、大坂にあった少数の兵士しか動かせなかったようである。
 
慶長4年(1599年)には義弘の子・島津忠恒によって家老の伊集院忠棟が暗殺され、それによって忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こす(庄内の乱)などの御家騒動も起こっていたことから、義弘は薩摩には戻らず中立的な立場を貫いていたものと思われる。
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を征伐するために軍を起こすと(会津征伐)、当初は東軍に属するつもりで義弘は徳川家康から援軍要請を受けていたため、手持ちの1000の軍勢を率いて家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。
しかし、元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、義弘は西軍への味方を決意したとされる。
しかし、大大名の島津家の雄がわずか1000の寡兵しか率いていなかったことに石田三成ら西軍首脳は愕然とし、義弘の存在を軽視した。
このため、三成が美濃墨俣で東軍主力部隊が到来したことに慌てて撤退するとき、前線に展開していた島津隊を置き去りにして逃げたり、9月14日の作戦会議で義弘は夜襲策を三成に献策したが、結局関ヶ原での野戦に決定するなど、義弘が戦意を失うようなことが続いた。
義弘が夜襲を献策した理由は、寄せ集めの西軍では正面からの野戦で徳川軍と戦うことが危ぶまれ、家康の部隊は9月14日に到着したばかりで一部は追いついておらず、さらにこの時点で徳川秀忠率いる別働隊も到着していなかったため、この夜の内に夜襲をすべしという義弘の献策には一理あったといえる。
宇喜多秀家も義弘の夜襲策には賛成していたという。 9月15日の関ヶ原の戦いには参加しながらも、戦場で兵を動かそうとはしなかった。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、八十島が下馬せず救援を依頼したため義弘や豊久は激怒して追い返し、完全に戦う気を失ったともされている。
 
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし午後2時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり、敗走を始めた。
その結果、300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の島津豊久の説得を受けて翻意した。
敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方、前方の敵の大軍の中を突破するという離れ業をすることを決意する。
島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。 島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破、徳川家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
この逃走劇に対して、井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった井伊直政は重傷を負い、松平忠吉も負傷した。(直政はこのとき受けた傷がもとで死に至ったと言われる)しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。
このとき、島津軍は捨て奸(すてがまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
その結果、豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり、多くの将兵も犠牲になったが、東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
 
義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で伊勢貞成と川上忠兄(ただえ)を家康と長束正家の陣に派遣し、撤退の挨拶を行わせている。
薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川との対決姿勢を図り、国境を固める一方で全身全霊を傾けて徳川との和平交渉にあたる。 ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重症を負わせた井伊直政に依頼した。
この選択は賭でもあったが、頼られた直政は誠心誠意、徳川・島津の講和のために奔走している。また関ヶ原で島津勢の捨て身の攻撃を目のあたりにした福島正則の尽力もあったとも言われる。
慶長5年(1600年)9月30日、当主出頭要請を拒み、軍備を増強し続ける島津家の態度に怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。加藤、鍋島勢を加えた4万の軍勢を島津討伐に向かわせるが家康は攻撃を命令できず睨み合いが続いた。
関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり戦上手の義弘も健在。 もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、家康は態度を軟化せざるを得ず、慶長5年(1600年)11月12日、島津討伐軍に撤退を命令した。
慶長7年(1602年)に島津本領安堵を決定する。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」とした。まさに方便ともいうべき論法である。
こうして島津氏に対する本領の安堵、島津忠恒(長男は夭折、次男・久保は文禄の役で陣没)への家督譲渡が無事承認された。
 
関が原の戦いでは西軍として参加したにも関わらず、領土を取り上げられなかった珍しい武将。 これも家康の囲みを突破し島津恐るべしという印象をつけた結果か。

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