姫路お城祭り

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おはようございます。朝日塗工です。先日姫路お城祭りにパレードに参加させて頂きました。姫路城の歴代城主の、池田輝政に指名されました。
2時間前から、武士?の服装に着替えさせられました。着物は、かなり強く締めつけるので苦しかったです。先輩は、ビールを一杯ひっかけてから着物をきたので、顔が青ざめていました。
パレードは無事終了後したのですが、武士?の格好で携帯電話をしていたら、女子高生に激写され、爆笑されました。流石に、武士と携帯には違和感があったのでしょう。
さて、姫路城は地元の世界文化遺産ですが、意外と、池田輝政について知らなかったので、少し調べてみました。
池田 輝政(いけだ てるまさ)は戦国時代末期から江戸初期にかけての武将・大名。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られます。
1564年、池田恒興の次男として尾張国(愛知県西部)に生まれた。
織田信長に仕え、1579年の花隈城攻略の時には、その活躍ぶりから信長より感状を授けられ、本能寺の変後は、父兄と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕える。
1584年の小牧・長久手の戦いで父・恒興と兄・元助が戦死したため、家督を相続し、その後も佐々成政征伐など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。
1590年、三河国吉田(愛知県豊橋市)に15万2,000石を与えられた。田原城(愛知県田原市)、牛久保城(愛知県豊川市)を支城にし、近くの二連木城(愛知県豊橋市)を廃城にした。
恒興の戦死後は準・豊臣一族として遇され、羽柴侍従の称号を授かっている。また、秀次事件に際しても輝政の妹である秀次の正室・若御前は助命され輝政の元に送り返されるなど丁重に扱われた。
1594年、秀吉の仲介によって家康の娘・督姫を娶る。
秀吉没後は家康と懇意になり、1600年に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、福島正則とともに関が原の戦いの前哨戦となった岐阜城攻略に参加し、戦後には姫路に大領を与えられた。そして名を輝政に改めた。その後は姫路城を大規模に改修している。
家康の娘婿であり、さらに播磨から備前などに100万石近い大領を領したということもあって、「播磨宰相」・「姫路宰相」・「西国将軍」とまで称された。この家康の娘との縁組は池田家の家格を大いに引き上げ、江戸期のみならず明治期に至ってなお池田家が繁栄する基盤となった。
1613年に姫路で急死する。享年50。輝政の死は世間では秀吉の呪いとも噂された。
着物はとても暑かったですが、普段パレードに参加することはないので、良い思い出になりました。

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