赤壁の戦い

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トニーレオン演じる周喩

おはようございます。兵庫県姫路市の朝日塗工の小田淳です。塗装・塗替え・防水工事をしております。
昨日、テレビでレッドクリフを観ました。
レッドクリフを日本語訳にすると「赤壁」になります。
中国の三国志時代の魏の曹操と呉の孫権との天下分け目の戦い「赤壁の戦い」を映画にしています。
ちなみに、レッドクリフの主人公の周喩は中国の三国志時代の呉の将。
主君、孫権の父、孫策とは義兄弟。
若くして立派な風采があり容姿端麗で『美周郎』の異名をとったそうです。
また音楽に精通しており、酔った時でもその間違いを聞き逃さなかったといいます。
少年の頃、孫策と出会い『断金の交』を結び、194年、孫策が江東へ軍を挙げると、周瑜もこれに駆けつけ、功績を挙げた。
その後、荊州の皖を攻め落とし、この時、喬公の二人の娘(二喬)を捕虜にし、孫策姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を妻とした。
孫策が亡くなった後、真っ先に孫権に臣下の礼をとり、周瑜は軍を取り仕切ることとなります。
 
208年、黄祖を討ち取り、その後の赤壁の戦いにおいては、都督として呉軍を指揮し、100万と言われた曹操軍をわずか3万程度の軍で打ち破った。
緻密な計と的確な指揮を発揮したのである。
三国志演義では諸葛亮の活躍が何かと目に付くが、結局は戦場で指揮を執ったのは周瑜であり、その周瑜の才知により曹操軍を破ったといえる。
その後、益州を占領し天下二分の策を立て、荊州・益州へ軍を発するがその途上で病気にかかり、36歳の若さで亡くなった。
死の間際、周瑜は「天は何故、この周瑜を生まれさせながら、諸葛亮をこの世に遣わしたのか」と自分と諸葛亮の才を嘆いたという。
近年では、赤壁の戦いの経緯から、軍略においては諸葛亮より上だという評価もある。
軍略・知略に優れた名軍師だったといわれている。もし、周瑜が短命でなかったのなら、三国時代は大きく変わっていたかもしれない。

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