ホワイト色

花嫁の1日は、純白の衣装を身につけることから始まります。
 
ドレスの白は、花嫁の清らかさの象徴、汚れなき無垢の魂を表し、白いベール(綿帽子)は、悪や悲しみから花嫁を守るためのものです。
そして、「サムシングフォー」。これは、結婚式当日に何か古いもの(オールド)と新しいもの(ニュー)、借りたもの(ボロー)と青いもの(ブルー)の4つを身につけておくと、幸せが約束されると言うおまじないです。
一生に一度の結婚式を祝う幸せのおまじないを、貴方の廻りの人にも教えてあげましょう。
 
白は、愛や生命と死の両方に関係する色です。 白い衣装は晴れの日の装いであり、一方、死に面した時も白い衣装を着けます。これは白が再生を意味するからだといわれています。
 
例えば、何かをやり直す時に「白紙に戻す」と言います。結婚も死も「無」からのスタートであることから、白がメインカラーとなっているのでしょう。
 
また、中国では、お祝いの「紅事」に対し、弔事のことを「白事」と言います。だから弔事には白い色で臨むのですが、近年では衣服の西洋化に伴い黒が広がりつつあります。
白馬に乗った王子様。
女性にとって大切な白い動物は、言わずと知れた「白い馬」。神馬の白い馬にはじまり、白い蛇は金運をもたらし、平和の象徴は白い鳩、家運の繁栄は白いねずみなど、白い動物は吉兆の象徴として大切にされます。
また、神話や物語でも白い動物は主役として登場することが多く、因幡の白兎、白鳥の湖、鶴の恩返しはみんな白です。
 
白い動物を吉兆とするのは日本だけでなく、中国、西洋、アジアでも言い伝えられており、“自由の国”アメリカのシンボルバードも「白い鷲」です。
光を一番反射する色が白です。
反対に黒は光を吸収します。でも不思議なのは、うすい布地や紙など光を通すものでは、逆の現象になります。
この実験の説明によく使われるのが、緑のトマトを袋なし、白い袋に包む、黒い袋に包む、3種類に分けて観察する話し。袋なしのトマトが程よく熟した頃に調べてみると、白い袋のトマトは袋なしに近い状態、黒い袋のトマトは緑のまましなびているそうです。
つまり、白い袋は光を通し、黒い袋は光を反射する不思議な現象が出現します。 そう言えば、中東の日差しの強い地域の人達は体や頭を黒い布で覆っていますね。と言うことは、夏に日焼けしたくない人は、黒を着用すれば良いと言うことになります。
しかし、健康に良く、見た目に涼しい白いシャツが、夏にはやっぱり一番です。

ラストサムライ

こんにちは。兵庫県姫路市で塗装・防水・塗替え業を営んでおります朝日塗工です。
私の好きな映画の一つが「ラストサムライ」です。
ロケ地はなんと!地元の書写山で行われました。姫路市街地を遠く望む書写山(三七一メートル)。虫の羽音に桜が散る静寂に満ちた山上の古刹・円教寺で、その映画は撮影されました。


円教寺ホームページ(地図) http://www.shosha.or.jp/
まず、映画の冒頭のサムライの登場シーン。これが、めちゃくちゃかっこいい!!

日本の政府軍に西洋式大砲の扱い方を教えるため、南北戦争で功績を治めた英雄が日本を訪れた。 政府軍の目的とは、反旗を翻した侍の討伐・・・ しかし彼は、侍との戦いの中、捕らわれの身となってしまいます。
捕らわれの身となった侍の村で、侍の生活を目の当たりにした彼は、侍の魂を守る為、武士の根絶を目論む政府軍に反旗を翻した男に出会う。 その静かで強い精神、日本古来の、誇るべき伝統文化の一つ、「武士道」に心を動かされていきます。
トムクルーズが夕焼けの中で剣の練習をするシーン最高です!!

悲しいかな、今の、この現代には、その精神を、受け継ぐ者も無く、消失してしまったかのように思えます。

ITを駆使した、文明社会。スピードを増し続ける、生活リズム。合理主義を掲げた、自由競争。 これらのものが、更に遠くへと、追いやっているようにも感じます。
そんな中、日本人の心の中に、忘れ去られた、サムライ魂を、思い起こさせてくれたのが、 「ラストサムライ」

新しい世の変革は、時として、古い文化を抹殺してしまいます。 古来より幾代にも渡り、受け継がれてきたサムライの精神が、新しい世の変革の渦中に呑み込まれ、ひとつ、ふたつと消えてゆくその中にあって、頑なまでにサムライの精神を守り通す。
一部族最後の最後まで、一人になっても守り通そうとする、その精神は、輝く程に美しく見える 人として… 一部族として… 国として… どう在るべきか、 “生きる”と言う事を、死を以って実行しているようにもみえるました。
最後の戦いは、凄まじい見事なまでの死に様を見せているサムライ魂が、目の当たりに、ことごとく消滅してゆくのだ タイトルの「ラストサムライ」に象徴されているように、最後に残された、一部族のサムライ達が、その魂諸共、先祖より引き継いできた精神文化と、心中しているようにも思えます。

死ぬ事を自ら選択した、この戦いは、これからも生きてゆく人々に、何かを伝えたに違いない。 戦いの舞台では、負けたかもしれないが、戦いを超えた、人間本来の舞台では、勝利を治めたのだと確信する。
生きてゆく心構えは、死んでゆく心構えに通じている自分の生き方を、再考する機会を与えてくれました。

脇を固める日本俳優陣が最高でした!! ラストサムライにおける渡辺謙の存在感は、他の俳優を寄せ付けていない。主演であり、ハリウッドのスーパースターでもあるトム・クルーズをも凌いでいると思えます。

「渡辺謙ってこんなに大きな人だっけ?」と思った程、決して体の大きさ云々では無い何かを感じました。アカデミー助演男優賞が噂されましたが、観れば納得です。
真田広之は剣の達人という設定で、セリフは少ないもののいい演技していました。

小雪は凛とした和風美人という印象が良かった。特に、森の中で、水を浴びているシーンは良かったです!!


トム・クルーズのお目付け役であった寡黙な侍役、福本清三のそこに立つだけで景色を変えるような静かな佇まも良かったです。
そんなわけで、映画の内容も俳優陣についても文句なしでした。

朝日塗工です。兵庫県姫路市で40年。塗装防水塗替え。

松下幸之助さんが、日本の伝統精神がきわめて優れた考えであるとおっしゃられています。
第一は、「和を以て貴し」
平和愛好の精神です。およそ1400年も前に、この「和」の精神が聖徳太子によって掲げられています。
第二は、「衆知を以て事を決す」
つまり民主主義です。古事記にも八百万の神々が相談して事を決したとあります。
第三は、「主座を保つ」
古来日本人は常に主座を失わずに外来のものを消火吸収し、日本化してきました。
この和、衆知、主座という3つの柱を守っていくことが、日本にとっても会社にとっても個人にとっても大切かもしれません。

室内の塗装・塗替え工事は兵庫県姫路市の朝日塗工へ。

床養生(ペンキで汚れないようにします)

枠まわり塗装中(キズがある場合は、塗装前にパテで処理します)
*クロス撤去後

廻縁・窓枠塗装完成(モダンなオレンジ色に仕上がりました)
*この後にクロスを施工


こんにちは。兵庫県姫路市の朝日塗工です。
塗装・防水・塗替え工事業を営んで40年になります。
室内の塗装工事もお任せ下さい。
写真はアパートの室内の塗装工事をおこなっております。
写真の職人は、大工出身の若手ホープの今田君です。
基本的な施工工程は、
クロス剥がし→枠まわりの塗装→新設のクロス施工になります。
枠まわりの塗装工事は、クロスを撤去しなくても可能ですが、手間が少しかかります。
室内のドアの塗装もクロスの上からの塗装も可能です。
室内の塗装・塗替え工事は、是非、朝日塗工へお声かけ下さい!!

心頭を滅却すれば火もまた涼し

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
日本の戦国時代、織田信長の軍勢は甲斐の武田氏を滅ぼしました。
その時に菩提寺である恵林寺をも攻めて火を放ちました。
住職の快川和尚は山門の楼上にすわり、燃えさかる炎の中でこの一句を唱えて覚悟の焼死を遂げたと伝えられています。
この句は唐の有名な詩人杜筍鶴の次の詩が出典だといわれています。
三伏 門を閉じて一のうを披く 
(夏の真っ盛り、門を閉じて僧衣を脱いでいる)
兼ねて松竹 房廊に蔭なし 
(建物には木陰もない)
いずくんぞ禅 必ずしも山水を須いん 
(だが、涼をとるのに山水は必要ない)
心頭を滅却すれば 火も自ら涼し 
(雑念を去り、無念無想の境地に入れば、火もけっして熱くは感じないものだ)
ここまで徹底できなくても、覚悟してしまえば、人間は相当なことができる。
どうにもならないと思った時はいっそのこと、この境地で開き直ってしまえば、かえって切り抜けられるかもしれません。

施主検査


検査
こんにちは。お世話になっております。
兵庫県姫路市の朝日塗工です。
塗装・塗替え・防水工事をしております。
私どもは、塗装完成後に施主様立会いの上、検査を実施しております。
施主検査で合格をいただいてから、足場を解体するようにしております。
もちろん、施主検査の前には社内検査を実施しております。
塗装・防水工事は是非、アサヒトコーへ宜しくお願いいたします。

島津義弘

どの戦国大名に似ているかを診断してくれるサイトがありました。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazu1110/busyou.html
「もし、友達に意地悪されたらどうするか」「今日はなんとなく仕事に行きたくない、そんな時は?」など、25の質問に答えることで、戦国大名の名が表示される。加えて、100点満点の武力、知力、魅力、政治力、才能の数値も表示される。
実際に試したところ、私は島津義弘でした。

●武力:70点 [よくできました] あなたの武力です。この値が高いほどあなたは敵をなぎ倒していき、戦闘で能力を発揮できます。現在でも愛する人を怪しい人から守るなどの時に役立つことでしょう。
●知力:50点 [普通] あなたの知力です。この値が高いほど頭がいいことになります。戦闘で仲間の損害を最小限に抑え、相手の損害を大きくすることができます。現在では、有名大学に入って、一流企業に入るもよし学者となって、後世にまで受け継がれるような研究を行っても良いことでしょう。
●魅力:75点 [よくできました] あなたの性格の良さです。この値が高いほど、周りの人の喜びを常に考える性格のいい人であるということです。
●政治力:75点 [よくできました] あなたの政治力です。戦国の世でのし上がっていく為には、朝廷や他勢力といかに交渉するかも大事です。この値が高いほど、あなたは自分の会社などで勢力を持ち、出世していくことができることでしょう。
 
●才能:75点 [よくできました] 音楽ができるとか人を笑わせるとか、ちょっと個性的な才能。秀吉が天下をとることができたのも個性的な才能を十分発揮することができたからでしょう。
 
島津義弘は、生誕 天文4年7月23日、1535年8月21日、死没元和5年7月21日、1619年8月30日。 薩摩島津氏の第17代目当主。
朝鮮の役で「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、関ヶ原の戦いでは徳川家康の本陣近くを通過して敵中突破を果たし、全国に名を轟かせた。
 
慶長3年(1598年)の秀吉死後、義弘は中立的な立場を貫いていたが、この頃の島津家内部では反豊臣的な兄・義久と親豊臣的な義弘の間で家臣団が分裂していたようである。
また、義弘が大坂に留まっていたのに対し、義久は本国の薩摩にいたため、義弘には本国の島津軍を動かす決定権が無く、大坂にあった少数の兵士しか動かせなかったようである。
 
慶長4年(1599年)には義弘の子・島津忠恒によって家老の伊集院忠棟が暗殺され、それによって忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こす(庄内の乱)などの御家騒動も起こっていたことから、義弘は薩摩には戻らず中立的な立場を貫いていたものと思われる。
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を征伐するために軍を起こすと(会津征伐)、当初は東軍に属するつもりで義弘は徳川家康から援軍要請を受けていたため、手持ちの1000の軍勢を率いて家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。
しかし、元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、義弘は西軍への味方を決意したとされる。
しかし、大大名の島津家の雄がわずか1000の寡兵しか率いていなかったことに石田三成ら西軍首脳は愕然とし、義弘の存在を軽視した。
このため、三成が美濃墨俣で東軍主力部隊が到来したことに慌てて撤退するとき、前線に展開していた島津隊を置き去りにして逃げたり、9月14日の作戦会議で義弘は夜襲策を三成に献策したが、結局関ヶ原での野戦に決定するなど、義弘が戦意を失うようなことが続いた。
義弘が夜襲を献策した理由は、寄せ集めの西軍では正面からの野戦で徳川軍と戦うことが危ぶまれ、家康の部隊は9月14日に到着したばかりで一部は追いついておらず、さらにこの時点で徳川秀忠率いる別働隊も到着していなかったため、この夜の内に夜襲をすべしという義弘の献策には一理あったといえる。
宇喜多秀家も義弘の夜襲策には賛成していたという。 9月15日の関ヶ原の戦いには参加しながらも、戦場で兵を動かそうとはしなかった。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、八十島が下馬せず救援を依頼したため義弘や豊久は激怒して追い返し、完全に戦う気を失ったともされている。
 
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし午後2時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり、敗走を始めた。
その結果、300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の島津豊久の説得を受けて翻意した。
敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方、前方の敵の大軍の中を突破するという離れ業をすることを決意する。
島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。 島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破、徳川家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
この逃走劇に対して、井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった井伊直政は重傷を負い、松平忠吉も負傷した。(直政はこのとき受けた傷がもとで死に至ったと言われる)しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。
このとき、島津軍は捨て奸(すてがまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。
その結果、豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり、多くの将兵も犠牲になったが、東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
 
義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で伊勢貞成と川上忠兄(ただえ)を家康と長束正家の陣に派遣し、撤退の挨拶を行わせている。
薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川との対決姿勢を図り、国境を固める一方で全身全霊を傾けて徳川との和平交渉にあたる。 ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重症を負わせた井伊直政に依頼した。
この選択は賭でもあったが、頼られた直政は誠心誠意、徳川・島津の講和のために奔走している。また関ヶ原で島津勢の捨て身の攻撃を目のあたりにした福島正則の尽力もあったとも言われる。
慶長5年(1600年)9月30日、当主出頭要請を拒み、軍備を増強し続ける島津家の態度に怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。加藤、鍋島勢を加えた4万の軍勢を島津討伐に向かわせるが家康は攻撃を命令できず睨み合いが続いた。
関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり戦上手の義弘も健在。 もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、家康は態度を軟化せざるを得ず、慶長5年(1600年)11月12日、島津討伐軍に撤退を命令した。
慶長7年(1602年)に島津本領安堵を決定する。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」とした。まさに方便ともいうべき論法である。
こうして島津氏に対する本領の安堵、島津忠恒(長男は夭折、次男・久保は文禄の役で陣没)への家督譲渡が無事承認された。
 
関が原の戦いでは西軍として参加したにも関わらず、領土を取り上げられなかった珍しい武将。 これも家康の囲みを突破し島津恐るべしという印象をつけた結果か。

キッチンの色


  ■淡い緑系でまとめたプラン       ■ブルー系のプラン
色には食材を美味しく見える色があります。
心とからだに元気をよみがえらせるため、野菜たっぷりのお料理をつくるキッチンをカラープランニングしてみてはどうでしょうか。
青菜の緑や人参のオレンジ色、トマトの赤に加え、お肉の赤や白身魚の白など素材にはたくさんの色がありますね。
キッチンは調理前の素材の色が引き立つ色づかいをしましょう。
左は、淡い緑系でまとめたプラン、右はブルー系のプランです。
あなたにはどちらのプランの野菜が美味しそうに見えますか?

ポーカーフェイス

良好な関係を結びたいなら、なによりも笑顔が大切だ。
これは一般的にもよく言われることです。例えば、心理学には「ムード感染効果」というものがあるらしいです。
その人の気分や雰囲気が相手にまで感染するという効果のことで、あなたが笑顔で接していれば、相手も楽しい気分になってくれるということです。
接客などの現場では、笑顔の接客術が非常に大きな力を発揮するそうです。
しかし、力強さ、自信、パワーをアピールしたい時には、「笑顔」はむしろ邪魔になるそうです。
日本人の笑顔はどうしてもヘラヘラした笑いになりやすい。
特に難しい話題を振られたりした時は、とりあえずヘラヘラ笑ってその場を取り繕うとする。
わからない話を振られても、ヘラヘラして誤魔化そうとせず、堂々と「わかりません」と言えばいいかもしれません。
その「動じない強い姿勢」が自信と知性のアピールに繋がる。
実験で、雑誌に掲載されたモデルを抜き出し、それぞれの表情によって、①笑顔グループ②微笑みグループ③無表情グループに分類し、どのグループが「強そう」に見えるか評価してもらった。
その結果、一番強そうに見えるのは「無表情グループ」だった。
無表情でいること、すなわちポーカーフェイスを崩さないことは、相手に感情を悟らせないだけでなく、パワーを印象づける効果もあるのだ。
「一流のピッチャーはどんなピンチに追い込まれても表情を崩さない」
いい笑顔ができる人は、愛されるし、可愛がられる。
いいポーカーフェイスができる人は、恐れられるし、尊敬される。
知的な自分、冷静沈着な自分をアピールしたい時は後者を選ぶべきかもしれません。
いつでもどこでも愛されるのがいいとは限らないかもしれませんね。

床屋と狩人ときつね

昔のたとえ話に「床屋と狩人ときつね」の話があります。
狩人は床屋の前でかしこまっている。
しかし、床屋はきつねにばかされるのできつねの弱い。
きつねは鉄砲で撃たれるので狩人に弱い。
結局、この中で誰が偉いかわからないという話でした。
勝負に勝つ人が偉いのでも、負ける人が悪くないのでもない。
教育する人が偉いのでもないし、教育を受ける人が悪いのでもない。
それぞれに生きる姿があるということです。
そう考えれば、喜んで人に協力することができるし、また協力を受けて仕事ができるのではないでしょうか。